立花博司 Hiroshi Tachibana | Emerge

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立花博司 Hiroshi Tachibana |Emerge

2014 年 5 月 10(土)—6 月 14 日(土)

[オープニングレセプション]初日 18ー20時

展示替えのご案内

展示に関わる選択(作品の選定やインスタレーションなど)をゆだねる試みを行います。他者の描いたものを作品の素材として使うことが、立花の作品の特徴ですが、イメージの素材をゆだねるその行為は、時間性や場所性の影響を表面化させる試みです。今回、他人の行為自体を作品の内にアクセプトする一連の態度を、作品制作の先にある作品受容にかかわる選択(作品の選定やインスタレーション)に展開するため、展示作業を一人のスタッフにゆだねました。

立花にとっては新たな試みとなります。この機会にぜひ改めてご高覧ください。

残像と記憶/レイヤーという新しい景色 立花博司 個展|Emerge に寄せて

立花博司が20年ぶりにアメリカから長期帰国し、個展の制作準備を始めた 2014年初頭、東京ではウォルフガング・ティルマンスの新作展が開催され(六本木・ワコウ・ワークスオブアート)連日大きな話題を呼んでいた。そこでティルマンスが提示したイメージで際立っていたのは、一頃の暗室で作られたアブストラクトではなく、ストレートフォト。ただし初期のそれとは違い、レイヤーを多用した新しい景色だった。パソコンのデスクトップに散らかる情報の断片や、一見ストレートフォトに見えるイメージも、レイヤーのコンポジションになっていて、何より展示全体の中でレイヤーを形成するパーツとして位置づけられており、それはレイヤーがパースペクティブに変わる新しい景色として、僕たちにリアルに語りかけてくるものだった。

冒頭から立花博司論を逸脱してしまったが、立花が今回の展示で採用しているメソッドは、外部のリソースをアクリルでトレース、ジェル・メディウムでキャンバスに転写するという作業を繰り返し、レイヤーを構成するというものだ。となれば、レイヤーによって新しい景色へアプローチするという意味において、ティルマンスと立花に共通点を見いだすのはそれほど強引でもあるまい。

そもそも我々は、パースペクティブを便宜的に採用しているにすぎない。

 

透視図法。それは、完全に合理的な空間=無限で連続的な等質的空間を表現するために編み出されたものであり、人間の直接的経験・知覚の原理とは必ずしも一致するものではない。– エルヴィン・パノフスキー『“ 象徴形式 ”としての遠近法』(ちくま学芸文庫)

我々の住む世界は、「無限で連続的な等質的空間」などではなく、人間の視覚は集中度や心理、環境的なコンテクストに影響されるので、昨今のハリウッド映画やゲームなどにみられる 一見極限にまで進化したかに思える CGやアニメのように、視野すべてに均質にフォーカスされることは実際にはない。

むしろレイヤーが作り出す景色こそが我々にとってリアルと感じさせるのはなぜか。 そもそもレイヤーという景色は、ティルマンスや 特定の誰かが発明したものではなく、また誰かに特権的なオリジナリティが認められているでもない。それはパソコンや、とりわけフォトショップ/イラストレーターなどのソフトが普及する中で顕在化した、つまり時代の要請によるパブリックドメインだからだ。これらポスト・スクリプト系のソフトが創り出すレイヤー効果は、 残像や記憶の積層を想起させるという点で、デジタル・テ クノロジーの中でもアートにより有機的に影響を与えことが出来たのだ。

さらに指摘しておくべきは、ティルマンスのレイヤーが、膨張しつづける世界にあって、個々の事象はそれぞれ無関心を装いながら、実は複雑に交差していく構造を示す、ある種の風景論 であるのに対し、立花は、この世界に暮らす人間の視覚そのものを絵画として扱おうとしているということだ。人の残像や記憶、痕跡をリソースとすることで、より内面的でありながらも、 たんに心象風景にとどまることなく、視覚の多様性を独自に表現しようとしている。

人間は忘れることなくして生きてはいけない。だが、薄れ消えかかる記憶を再びこちらへ引き戻そうと、自らの(あるいは他の誰かの)心の中に手を突っ込み、記憶の端緒をまさぐるとき、 その心の手はうっかり違う記憶の断片に触れてそれを刺激する。私たちの視 覚情 報はこのようにして、幾重もの記憶のレイヤーが絶えずその透明度と位相を変えながら繊細に干渉し合い、揺らぎ、重なりながら景色として脳に像を結ぶ。 立花博司は、そうした残像と記憶のレイヤーを、新しい景色=新しい絵画として私たちに提示しているのである。<p>

(志賀良和:スプラウト・キュレーション主宰)

Artist’s Statement

今回の展覧会のために20年ぶりに日本に長期滞在し制作された作品は、作家として自身のアイデンティティを改めて再考察する機会とし、意識の中の無意識を拾い上げることにより、表層には現れてこない記憶や視覚を浮かび上がらせて時間性や場所性の影響、それにともなうアイデンティティといった目に見えなかったものを改めて表層化させる試みであります。

 何かのために描かれたわけではない形。作品は、その無意識、意識からできてきた 形や色のレイヤーで重ねたイメージが構築されています。制作過程の副産物である使 われたパレットや絵の具を拭き取ったペーパータオル等でさえ取っておかれ、トレース され作品自体のソース素材になっています。意識的と無意識の両方を利用して、彼の絵画は、意識の中に埋もれる無意識の視覚を表層化しようしています。その半透明の層で重ねられた絵は、魅惑的な表面密度を呈しています。今回の作品はすべて日本滞在中に制作された新作となります。

His works - created during his first long stay in a couple of decades - focus on an attempt to visualize the invisible, and show the influence of time,place. They pick up the unconscious from consciousness to conjure memories and visual perceptions which normally do not appear on the surface of our mind.

His layers of colours and forms are resemble of autowriting -they are created not through the concious mind of the artist but he rather becomes a tool that delivers the images. Used palettes, paper towels and even old drawings are carefully kept aside in his studio. These peripheral materials get traced onto his canvas and construct his paintings. Addressing both unconsciousness and consciousness, his practice digs out inconscient visual perceptions and layers of these imageries create fascinating density of superficies in his paintings. This is an opportunity to reconsider the artist's identity. All paintings are newly made during his stay in Japan.