素描/エクリチュール
Dessin / Écriture : October 1-November 12, 2011
Opening reception on Saturday, October 1st from 6 pm.
オープニング・レセプションにて村田峰紀「背中で語る」緊急パフォーマンスが決定!
10月1日(土) 18時〜
「過去」でもなく「未来」でもない、「残りの時」(= G・アガンベン)としての「現在」を如何に描き留めるか。ドローイングという表現形態は、「現在」という特別な時間と対峙する強靱な精神性を内包する。本展は、故・榎倉康二の、貴重な80 年代初頭のドローイング作品の他、将来を嘱望されるこの新人作家によるドローイングを、併せて展示する。
榎倉康二 Koji ENOKURA
揚妻博之 Hiroyuki AGETSUMA
笹川治子 Haruko SASAKAWA
村田峰紀 Mineki MURATA
榎倉康二(1942―1995)
本展出品のドローイングは、シリーズとして記号で作品名が付けられている。ボイル油とパステルコンテ、そして紙の三色のトーンは、美しく、スタティックに調和している。偶発的に生まれた形象に見えるが、実際にはこの一連のシリーズにはそのエスキースが資料として残っている。つまり、この作品が榎倉によって綿密に仕組まれた、闘い/ゲームであり、気まぐれな振る舞いをするボイル油の生む偶然/カオスと、パステルコンテ=榎倉の主体的な能動が、余白を挟んで、激しくせめぎ合っている作品であると理解できる。
そして、物質の安定性としては不確かであるボイル油は、作品が制作されて約30 年が経過する現在もなお、物性として僅かにでも変化し続けている可能性があるとすれば、画中でのカオスと榎倉の闘い/ゲームは、未だに決着していないどころか、その意味において、故人となった榎倉が作品の中で闘い/ゲームの当事者として今もなお生きている。
榎倉康二が52 才の若さで急逝して、今年はその17 回忌にあたる。位相としては、モダンと、ポストモダンの間にあった榎倉が、もし生きていたなら、進むべき方向性を見失った現在のこの国のアートに、少なからず示唆を与えていたに違いないと考えるとき、その不在は改めて惜しまれる。本展では、恐らく直接的な影響はないにせよ、どこかに榎倉のDNA を感じせる、若いアーティスト3 人を招いた。
揚妻博之
20 代前半までクラブDJ として音楽活動を行なってきたが、芸術のコンテクストとの関連性から、音を抽出し可視化させる方法を探求するようになる。空間に配置されたドローイング、スカルプチャー、言葉…複数のテクストが振動することによってイメージがどう変化するのか。空間が時間の積層地帯とするならば、振動はどこで起こっているのか。最近は、振動を有形な物体に伝え、振動を視点として音の形態を転化させる作品を制作している。
●展示作品「あなたが持つ空間性について」
作品は、コイルと12 本の線からなる再生装置の振動から生まれる音のインスタレーションの一部であり、この空間で「あなた」が認識するであろう音をイメージして描かれたドローイングである。現代では、音は主体によって抽出され、形式化されたテクストとして伝えられることが多い。その抽出された上方は、2次3 次と情報が更新されてわたしたちは受容する。しかし、その一見単純に思える情報は、テクストをひとつひとつ梳かしていくと、一人一人の歴史と空間、1 本1 本のコンテクストが複雑に織り重なっていることが見てとれる。その空間で鳴っている音を想像し線として綴っていくこと。そこには、世界を形作る音の呪縛から解き放たれた<もの音>世界の現象形態としての音があるのではないだろうか。
笹川治子
ロボットを連想させる巨大なインスタレーションや、監視カメラなどの情報管理社会を象徴するモチーフを、段ボールや中古の電化製品といったごく身近な素材を用いたシリーズを展開している。高度なデジタル技術を駆使してデザインされたこれらが、笹川の手によってアナログな「もの」として私たちの目の前に現れる。
●展示作品「スキーマ 2011」
記億のかけらが導きだす儚げな図像。淡い記億の残像が蓄積され、脳内フォトショップによって再度編集される。日々の情報を用いて脳内フォトショップは目がかき集めた像を再描画する。協調・ディザ・オーバーレイ・ゆらぎ・切捨て・ぼかし。今日見たことをどのような印象として残すのか。現れては消える残像のモーフィングを再現し描き留める。
村田峰紀
自らの身体を酷使し、言語化することができない身体感覚を鑑賞者に示すことで強いインパクトを与えるゲリラ的なパフォーマンスや、その「痕跡」として産み出されるインスタレーションを発表している。
●展示作品「アフターイメージ afterimage」
2011 年9月26日弊廊で行われた同タイトルのパフォーマンスに拠るドローイング。ここにあるのは、今まで確かに存在していたものが、何か別の力によって全て消えてしまった後の残像と、その後にまた新たに生み出されたイメージである。震災後、アーティストとして何が出来るのかを模索してきた村田が、日常を続けて行くことの重要さ、つまり彼にとってのパフォーマンスを、たとえそれが苦痛でも、ときには他者に伝わらなくても必死に続けていくしかないという強い意思が込められている。